今日も #万難を排して


今回のカーチュン・ウォン指揮、日本フィルのショスタコーヴィチ《交響曲第7番「レニングラード」》を聴いて、演奏そのものの素晴らしさはもちろんだったのだけれど、それ以上に強く感じたのが、カーチュンと日本フィルの両者がかなり成長、深化していて、関係そのものが以前とは少し違う段階に入っているのではないか、ということだった。
まず印象的だったのが弦で、低弦はしっかり鳴っているのだが、決してゴリゴリ押してくるような重い鳴り方ではなく、むしろヴァイオリンとヴィオラが非常に美しい。音量が上がっても荒れたり濁ったりせず、ショスタコーヴィチ7番という、どうしても重量感や音圧の方に意識が向きやすい作品の中で、下がきちんと鳴っている一方、上声部にはかなり透明感が残っていた。
ここ数年の日フィルを聴いていて感じていたことではあるけれど、弦の音そのものがかなり変わってきているように思う。以前よりも鳴るようになっているのに、音が分厚くなる方向だけではなく、特にVnとVaに美しさが出てきたというか、量感と透明感が両立するようになってきた。
そして今回、それ以上に面白かったのがカーチュンの指揮だった。
第1楽章、小太鼓が一定のリズムを刻みながら同じ主題が何度も繰り返され、徐々に編成と音量が増していく有名な場面。こういうところは、指揮者がかなり細かくクレッシェンドを管理したり、テンポやバランスを整理したりすることも多いと思うのだが、今回のカーチュンは驚くほど何もしなかった。
「何もしなかった」というと少し違うのだけれど、拍を細かく振るわけではなく、身体を少し捻ったり、奏者の方を見たり、表情を変えたりする程度で、かなり極端に言えば顔で指揮しているような感じだった。それでもオーケストラは全く迷わず、小太鼓のリズムに乗りながら自分たちで少しずつ音量を上げ、音楽の密度を増していく。
見ていて一瞬スヴェトラーノフかと思うくらいだったのだけれど、これはもちろん放置しているわけではない。むしろオーケストラ側が、この先どこへ向かうのか、どれくらいの速度で音を膨らませていくのか、どこまでエネルギーを溜めて、最終的にどこへ到達するのかということを、かなり深いレベルで共有できているからこそ、指揮者が一拍一拍を管理する必要がないのだと思う。
必要な瞬間だけ、身体の向きや視線や表情で方向を示して、あとはオケに任せる。その任せ方に全く不安がないというのが、今回かなり印象的だった。
この演奏を聴きながら思い出したのが、以前のマーラー《交響曲第8番》だった。
あの時も非常に立派な演奏だったし、巨大な編成を破綻なくまとめて、構造も明確で、完成度としてはかなり高かったと思う。ただ一方で、自分には少し折目正しすぎるところもあるように感じていた。
当時のカーチュンはかなり細かく振っていて、大きな作品を自分の手でしっかりコントロールし、細部まで整理していくような印象が強かった。だから演奏としては非常に整っているのだけれど、マーラー8番という作品にある、もう少し危うい巨大さというか、オーケストラが自発的にうねっていくような感覚は、今ほど強くなかった気がする。
ただ、今振り返ると、あのマーラー8番を一緒に作り上げた経験そのものが、両者にとって一つのターニングポイントだったのではないかという気もしている。
あれだけ巨大な作品を共に作る中で、カーチュンは日本フィルがどこまで自分たちで音楽を作れるのかを知り、日本フィルの側も、カーチュンが何を求めているのかを、以前より少ない指示で理解できるようになったのではないか。
以前は「カーチュンが日本フィルを動かしている」という印象がもう少し強かったのだが、今はかなり違う。
カーチュンが大きな方向を示し、日本フィルが自発的に音楽を作り、そのオーケストラの反応を受けてカーチュン自身もまた音楽を変えていく。そういう双方向の関係になってきているように見える。
単に指揮者がオーケストラをうまくコントロールできるようになった、という話ではないし、日本フィルが単純に上手くなった、というだけでもない。両者が一緒に時間を重ねる中で互いに変わり、その間にある関係自体が深くなっている、ということなのだと思う。
そう考えると、今もう一度聴いてみたいと思うのがマーラーの第9。
以前カーチュンがこの曲を演奏した時は、自分の好みとはかなり逆のことをやっているように感じて、正直苦手な演奏だった。自分はマーラー9番には、細部を整理しすぎるよりも、もっと長い呼吸で音楽が流れ、特に終楽章では時間そのものが少しずつ崩れていくような感覚を求めているのだが、以前のカーチュンはそこをかなり明確に形作ろうとしているように聞こえたからだ。
ただ、今回のショスタコーヴィチ7番を聴いていると、今のカーチュンならどうなるのかはかなり気になる。
以前ほど自分で全部を動かさず、オーケストラに任せることができるようになった彼が、今の日フィルともう一度マーラー9番を演奏したら、おそらく以前とはかなり違うものになるのではないか。
以前は苦手だった演奏を、今ならもう一度聴いてみたいと思える。それ自体が、このコンビがどれだけ変わったかを示しているような気もする。
今回のショスタコーヴィチ7番で最も強く感じたのは、単純な完成度の高さではなく、カーチュンも、日本フィルも、そしてその両者の関係も、かなり深いところまで来ているということだった。
首席指揮者とオーケストラを長く聴いていく面白さは、まさにこういうところにあるのだと思う。
カーチュン・ウォンと日本フィル、今かなり面白いところまで来ている。
みんな本当にいい顔してたなぁ。



